プレリュード(前奏曲)
私は東京の阿佐ヶ谷のある病院で産まれました。これは何十年も後に分かった事です。自分としてはどこで産まれたかと言うことは興味がなかったからです。そしてこのプロフィールを書く羽目になってちょっと探究心が芽生えたからです。その頃両親は高円寺に住んでいたそうです。高円寺には病院はなかったのだろうか。どうしてわざわざ阿佐ヶ谷まで母は大きなおなかをして行ったのだろうか。みなさんは言うでしょう、どうだっていいじゃないですかそんな事。そうです、どうでもいいのです。私はただこの文章を長くしたかっただけの事です。日本に住んでいた時は、私が23歳になるまで5回ほど引っ越しをしました。それもなぜか杉並区と中野区を行ったり来たりでした。昭和時代、とてもいい環境で育ったと思います。運が良かったわけです、この斎藤家に生まれて。幼稚園は高円寺にありました。なぜかカトリック系の幼稚園でなぜかその頃私達は沼袋に住んでいました。皆さん、変だと思いませんか。どうして両親はいつも遠出をしたのでしょうか。確かその幼稚園には2回バスを乗り換えしなければならなかった。4歳児にとってこれは一種の冒険です。それも毎日が冒険です。1回バスの中でどうしても我慢できずお漏らししたこともありました。泣きじゃくりながら家に帰ったことを今も覚えています。恥ずかしかった事でしょう。さて父は仏教でしたが息子をカトリックの幼稚園に入れたわけです。おかしな話です。父は作曲家で今も思うに変わった人物でした。だから作曲家やれたかもしれません。幼稚園で二人の友達が記憶に残っています。一人は女の子のえっちゃん、もうひとりは男の子の名前不明。彼は身体障害児だったと思います。それかもしくは変人だったかもしれません。この彼が言うことはあまり理解できなかった。まるで外国語を喋っているようでした。それにもかかわらず一緒によく遊んだものです。土遊びががむしゃら好きで幼稚園時代を過ごしました。今の若い日本人には土遊びなんて理解できないと思います。先ほど登場したえっちゃん、中学時代のピアノ発表会で再会することになります。この時の感情は懐かしいというよりこの子誰って感じでした。さて幼稚園も卒業となり、僕の好きだった小川先生との別れは子供なりに悲しい感情の生誕となるのでした。
小学校一年生、ワクワクです。めでたく小学校時代は、両親は引っ越ししませんでした。6年間同じうちにいるのはこれが初めてで、そして最後にもなるのでした。この小学校、家から歩いて5分、快適です。全然緊張なく通えたのです。この当時、サッカーと野球が土遊びの代行となったのだ。なんとなく成長感がある。皆さんご存知と思うが毎日が”巨人の星”だった。テレビっ子だった、一人っ子だった、両親は共稼ぎだった。ひとりで過ごす毎日だった。隣におばあちゃんが住んでいて、昼ごはんはいつも一緒に食べたものだ。この頃道路は土でアスファルトになったのは僕が3年生になった頃と思う。確かではないが。アスファルトといえばそれで何ができる、そうですローラースケートです。これにもハマりました。この辺で私の音楽状況を物語りましょう。もちろん幼稚園からもうピアノは弾いていました。ピアノの先生、高円寺でした。例のバス通いはまだ健在です。でも週一なので苦にはならなかった、それに僕、もう小学生です、しっかりしてきました。厳しい人でした、佐藤先生。よく泣いて家路したものです。バルトークとバッハ、この作曲家が僕の血となるのです。ハノンの練習嫌いだったなあ。あれ音楽じゃないでしょ、はっきり言って。子供ながらももうすでに音楽とはなんぞやと哲学的に把握していた僕でした。ピアノはまあ上手でしたが、先生の狙いは僕が作曲家になることだと今は思っています。指を動かすより楽譜を読むのが好きだった私。いつも感動してました。どうしてこんな曲が作れたのかと感動していました。
つづき.…